CULTURE
歴史と風土
SINCE 1975
時代とともに変化する
社会と向かい合い、
新たな事業を
立ち上げるたびに
磨かれてきた
“ブレーンセンターらしさ”。
HISTORY OF 1975
創業。
「金なしコネなし
学歴なし」のスタート
第一次オイルショック(1973年)によって、在籍していた広告会社の経営状況が悪化するなか、当時25歳の稲田紀男は一念発起。長年胸に抱いていた「出版社」の創業を夢見て起業を決意し、大阪・空心町交差点角に事務所を構えた。ところが出版社を名乗っても、肝心の著者や取次会社(※)からの信用獲得は残念ながらゼロからのスタート。取次会社との口座開設に向けて足茂く通いつつ、一方でかつての顧客を回って社長に取材し、そのインタビュー記事を社内報に掲載してもらうなどして糊口をしのいでいった。
※書籍・雑誌などの出版物を出版社から仕入れ、小売書店に卸売りする販売会社。取次会社との取引口座を開設することで、全国の書店に本が届けられる。
HISTORY OF 1977
出版事業と公開対話セミナーを開始
1977年、地域の相互扶助を促すタウン誌「月刊マイ奈良」を創刊。念願の出版事業の第一歩を記した。また、翌78年からは公開対話セミナーを開始。行政、財界、学術、文化の分野で日本を代表する知識人による対話セミナーとして計220回開催し、岡本太郎、武満徹、唐牛健太郎など、500名の講師をコーディネートした。
HISTORY OF 1979
コーポレート・コミュニケーション事業を開始
稲田は、たった一人で新規顧客の開拓を開始。企業の「会社案内」や「入社案内」といったコンテンツの企画制作を受託する「コーポレート・コミュニケーション(CC)事業」を開始した。また、資本金300万円で法人を設立し、大資本の後ろ盾のない独立系企業として不可欠な自立への一歩を踏み出した。さらに、出版事業においても二大取次(東販、日販)の口座開設に成功。同年、畑祥雄の写真集「背番号のない青春」が大きな話題を呼んだ。81年には「適塾(現在の大阪大学)」の伝統を受け継ぎ、「大阪の知恵の継承」をする昭和の賢人のメッセージで、昭和の遺言書「なにわ塾叢書」を刊行し、2002年までに全83巻発行。著者は建築家・村野藤吾、画家・須田剋太、住友生命会長・新井正明、樹医・山野忠彦など各界にわたった。
伝えたいDNA
独立系企業として培われた“自立自営の精神”
代表 稲田:ゼロから出発した我々ブレーンセンターには、己の裁量で食べていくというDNAが生まれながらに埋め込まれています。親会社の意向ではなく、自分たちの未来は自分たちで決める。その想いが自由闊達な企業風土となり、新たな事業を生み出す原動力になっていると確信しています。
HISTORY OF 1983
新卒採用を開始。
CC事業の一層の拡大をめざして新卒採用を開始。社員わずか10名の無名の編集・出版会社という悪条件のなか、求人票に記載した「金なしコネなし学歴なし。志で世界を変える。」というメッセージが反響を呼び、第1期生の採用に成功。以後数年間、当社の採用キャッチコピーとなった。
伝えたいDNA
志採用を貫く
第2期新卒社員 TAKE:「ブレーンセンター」という知的な社名に惹かれて求人票を見ましたが、「志で世界を変える」という甘美な言葉にグラッときました(笑)。また説明会では「情報開示・合議制・利益分配を3本柱に全員経営を実践する」というメッセージに既存の企業にない革新性を感じました。ただ当時、実際に何をやっている会社なのかはよくわかっていませんでしたが(笑)。いずれにせよ、30年以上在籍していますが、知性が鍛えられ世界観が広がる会社であることは断言できます。
HISTORY OF 1985
採用PR事業、映像メディアに挑戦
企業PR事業から採用PRへ、セールスプロモーションへ。印刷メディアから映像メディアへ。当社は80年代以降、CC事業の領域を次々と拡大していった。・・・といえば順風満帆に見えるが、その実態は極めて泥臭いもので、経済的自立をめざす多くの新卒社員が顧客のニーズに「No」と言わず、社内外の協力者を募りながら見よう見まねで提案に結びつけていたというのが実態だった。ただ、失うものがない若者ならではの体当たりの営業活動が当社の顧客基盤の拡大と力量向上につながり、現在の多様な商品・サービスにつながっていったことはまぎれもない事実である。
伝えたいDNA
「No」と言わない。「できる方法」を探ることで未来を拓く。
第3期新卒社員 YOSHIMASA:入社当時「1年で全商品を手がける」という目標を勝手に立てて公言し、達成しました。大阪のメインストリートを北から南まで、いわゆる飛び込み営業をし、辛かったですが今ではいい思い出です。そのなかで、当時採用難に喘いでいた船場のアパレル会社の採用活動を、複数の企業を集めてプロジェクト化するマルチクライアント型で提案し、オリジナル媒体や就活イベントをプロデュースしたことは後々の自信になりました。コシノヒロコさんも意気に感じて無償でFMラジオCMに出演してくれました!
HISTORY OF 1986
IR(Investor Relations)事業を開始
80年代、財務力を高めた日本企業の資金調達は、金融機関から調達する「間接金融」から、投資家から資金を募る「直接金融」へとシフトしていった。そのなかで大きく成長したのが「IR(Investor Relations:投資家向け広報)事業」だ。財務諸表の分析など、慣れない投資家目線のコンテンツが求められるため当初は難航したが、財務知識を加えることで、新規事業や新製品情報に頼っていた顧客の成長戦略をより鮮明に描くことができることを発見。資金調達→成長投資→収益化という企業活動のダイナミズムを伝えるIR事業(アニュアルレポート/統合レポート)は、現在の当社の基幹事業となっている。
HISTORY OF 1988
CI(ブランディング)事業、英文翻訳サービスを本格化
80年代、日本企業はエレクトロニクスや自動車、素材、ファッションなどの幅広い分野において、高度で繊細な技術が世界的な注目を集めるようになった。そのなかで、国内外に企業としてのアイデンティティ(独自性)をアピールすべく積極的に取り入れられたのが、社名からブランドロゴ、企業カラーまでを統一するC.I.(コーポレート・アイデンティティ)戦略だった。また、C.I.戦略は国際的なイメージ戦略の一環であることから、企業PRやIRツールの海外版の需要も増加。翻訳サービスを強化するなど、これらニーズに積極的に対応したことが、現在の当社のブランディング事業や海外PRを担う国際C.C.事業につながっている。
伝えたいDNA
日本企業の国際競争力の向上に貢献する新たな事業を創造し続ける。
第3期新卒社員 MANABU:80年代は“バブル”の最盛期。巷ではあらゆる企業がこぞって、社名からブランドロゴ、マークまでを、ゴージャスなファッションで着飾るように変貌を遂げていった時代でもありました。そんななか、デザイン部が注力したのが、企業様にとって真のアイデンティティ(独自性)とはどうあるべきなのか?表面的な“カタチ”だけを整えるだけのデザインで良いのか?を考えること。結果、そこから導き出されたのは、お客様を取り巻くさまざまなステークホルダーとの良好な関係を末長く継続するための“関係性のデザイン”という思想。今でもこの考えは当社のブランディング事業の核を成しています。
東京支社(現 東京本部)を開設。東阪2本部制へ
80年代後半から90年代初頭のバブル景気の時代。新卒採用は完全な買い手市場であり、多くの企業は新卒採用に多大な予算を計上。採用ツールは年々豪華になり、採用PR市場は異業種からの新規参入が相次いだ。そうしたなか、当社もより大きな市場開拓をめざして東京事務所を開設。企業PRやIRという、採用PRの専門企業にない知見や表現手法を活かした成長ストーリーや社員像が好評を博し、有力企業を次々と開拓。90年には東京本部と改称し、東阪2本部制とした。
HISTORY OF 1992
課題解決型の企業へ
新たな顧客ニーズを成長機会と捉え、ノウハウを蓄積しながら事業領域を広げていく。そんな経験を繰り返していくなかで生まれたのが、後に「コンサルティング事業」となる課題解決型の業務スタイルだった。「顧客が発信したいコンテンツ」をつくるだけでなく、「顧客が抱えるコミュニケーション課題」を起点に、コンテンツに留まらず、ビジョンや成長戦略の策定までさかのぼって解決策を提案していく姿勢は「顧客に寄り添うブレーンセンター」として高く評価された。
伝えたいDNA
コンテンツをつくる前に、つくる「目的」やその「手段」を考える。
92年入社 TAKAO:面接時に足を組みながら「目的をつくる仕事をつくりたい」と、偉そうなことをほざいていた私。若気の至りとはいえ恥ずかしい限りです。そんな私を採用してくれた当時の上司には感謝です。また、私の社会人人生は日本の「失われた20年」とともにあり、その悔しさが今の私の原動力となっています。グローバル化やインターネットの登場、サステナビリティの浸透など、絶えまない変化の波に商機と勝機を見出し、新しい顧客課題の解決に資するビジネス(手段)を追求してきた歩み、そのDNAだけは、これから仲間になる方々にも継承してもらいたいと切に願っています。
HISTORY OF 1995
マルチメディア研究室を発足
95年11月に発売されたマイクロソフトのOS「Windows95」によって、企業だけでなく一般家庭でのパソコン利用やインターネット活用が急速に普及していった。そのなかで当社は、プリント・映像・展示に次ぐ第4のオウンド・メディアとして「Web」を位置づけ、95年に「マルチメディア研究室」を設置し、その活用方法を模索。97年には企業PR・採用PRを目的とした初のコーポレート・サイトを受託制作した。翌年の98年には「マルチメディア事業部(現 映像・マルチメディア事業部)」を開設。以来、コンテンツ企画の際には積極的に「Web活用」を提案し、現在はコンテンツ企画の約5割を映像・Webメディアが占めている。
伝えたいDNA
やりたいことは、自ら開拓する!
91年入社 HATSUMI:私が最初にWebサイトづくりを手掛けたのは、1997年、顧客企業の採用サイト構築でした。この仕事を通じて、閲覧者の行動がわかる面白さに魅了されたことと、この分野は絶対に成長すると直感した私は「Web専門のチームを作りたい!」と、当時の上司に直訴しました。すると、「わかった。じゃあ人の採用からやろう」と言われ、採用活動から行動を開始。こんなんでいいの?と思いつつ、上司のおかげで会社経営を身近なものに感じることができました。集まったメンバーで最初に取り組んだのは、「世界品質のサイトづくり」。W3Cの英語のガイドラインを理解するためにみんなで分担して必死に英語を読み合わせしたことは懐かしい思い出です。誰も手掛けていない新しいことに、臆することなく挑戦し続ける。そのDNAを次世代の人たちにも受け継いで欲しいと思います。
HISTORY OF 1997
環境PR事業に関する研究に着手
複雑化・地球規模化する環境問題に対応するため、政府は1993年に「環境基本法」を制定し、企業に自社の環境負荷やそのマネジメント体制について対外的に説明することを求めていった。これら動きを踏まえ、当社は「環境関連情報」が今後の企業PRや情報開示に必須のコンテンツとなると考え、90年代半ばから法律やその傘下にある各種規定・プログラムの研究を開始。98年に初めての「環境レポート」を受託制作し、2000年以降、主力事業となる「環境/CSR事業」の土台をつくっていった。
HISTORY OF 1998
IRに関するコンサルティング&コンテンツサービスで成長
1998年の店頭株式市場の開設を機に多くの中小企業、ベンチャー企業が上場をめざすなか、当社はこれら企業に対して、リスク分析・機会分析を踏まえた中長期的な成長ストーリーを提案。コンサルティング力を活かしたとコンテンツ制作という現在のビジネスモデルの基盤を確立していった。
HISTORY OF 2005
環境/CSR PRに関するコンサルタント業務を本格的に事業化
2000年以降、多くの企業が「環境/CSRレポート」を発行し、90年代の採用ツールと同様、ある種のバブル状態となっていた。そのなかで当社は、早くからこの分野の研究を進めてきたことから、他社が国際機関や省庁のガイドラインに忠実な情報開示を提案するのに対して、環境・CSR・サステナビリティ情報を“社内外に持続的な成長力を示すコミュニケーションツール”と位置づけ、情報のわかりやすさ、読みやすさを徹底追求。実績を積み重ねながらこの分野における企業ブランドを確立していった。
伝えたいDNA
右脳のひらめき、左脳のこだわりを融合して“顧客の成長に役立つ”企業コミュニケーションを追求する。
96年入社 JIN:他社の「ガイドラインにいかに準拠するか」という制作スタンスに対する、当社の“コミュニケーション・ツール”というスタンスには、情報発信を通じて顧客の役に立ちたいという当社のDNAが込められています。この時の成功体験によって、“コンサルティング&クリエイティブ”という、今に至るブレーンセンターのパートナー像が確立されたと思っています。右脳のひらめきと、左脳のこだわり。もちろん一人ですべて実践できるものではありませんが、当社の魅力の一つが、この二つの視点から多士済々が喧々諤々と議論する「場」にあるということは自信をもって言えます。
HISTORY OF 2008
「国際企業コミュニケーション(国際CC)部」を開設
海外PRプロジェクトや環境/CSRレポートの増加に伴い、英語版・中国語版などの翻訳コンテンツのニーズが高まったことに対応して、「国際企業コミュニケーション(国際CC)部」を開設。多言語による翻訳サービスを強化するとともに、海外とのコミュニケーションギャップを解消するために現地版コンテンツを独自に企画制作するというスタイルを追求していった。
HISTORY OF 2011
IR事業のさらなる成長をめざして「統合報告研究会」を設置
2010年に英国で創設された国際的NGO、国際統合報告評議会(IIRC)は2011年、企業に財務情報と非財務情報の両方を統合的に公開する「統合報告」という情報公開のフレームワーク策定を呼び掛けた。これまでの財務情報に加えて、非財務情報である「(E:環境、S:社会、G:ガバナンス)」を加えることで、投資家やステークホルダーにより精緻な企業価値算出法を提供しようというのがその趣旨だった。「非財務情報を加えることで、アニュアルレポートの概念が変わる」。そう確信した当社は、即座に有志で構成する社内勉強会「統合報告研究会」を設置。週に一度の定例会でコンサルティングのポイントや新規コンテンツの可能性を議論し、現在の「統合レポートならブレーンセンター」という評価へとつなげていった。
伝えたいDNA
企業経営を取り巻くグローバルなトレンド・潮流を見据えて、独自の強みをつくりあげていく
99年入社 MAKOTO:当社のコンサルタントは、常に顧客企業の事業に大きな影響を与える国内外のルールの変化を追い続けています。IIRCの動向研究はその一つで、他には国連の「グローバルコンパクト」や「SDGs」、GRIが発行した「G4」などもあります(興味があったら調べてみてください)。これらの調査研究は、かなりマニアックな世界ですが、当社が他社のコンサルと一線を画しているのは、これらルールを顧客企業の実際・実態に重ね合わせ、その企業ならではの魅力へと昇華したコンテンツをつくることができる点です。知れば知るほど面白い言葉の世界、表現の世界がここにある。後輩にもぜひ受け継いでいてもらいたい当社の魅力です。
HISTORY OF 2014
働き方改革を推進し、「ホワイト企業アワード」3部門を受賞
2000年以降、日本を代表するグローバル企業を数多く開拓していったことに比例して、各種レポートやWebサイトの制作ボリュームが一気に増大。年間を通じて繁忙期が続くようになった。こうした状況を改善するために若手社員有志が立ち上げたのが、業務効率化と働きやすさと同時に業務品質を高める「時短プロジェクト」だった。さまざまなアイディアを持ち寄りながら話し合う相手は、若手同士から中堅層、そして役員へと広がり、2015年の役員会で「3年後にホワイト企業アワード※複数部門の受賞をめざす」という経営目標が掲げられた。その結果、当社は2017年のアワードで「女性活躍部門大賞」、2018年は「ワークシェアリング部門賞」「テレワーク部門賞」を受賞。受賞につながった各種施策の有用性はコロナ禍でも大いに発揮された。
※(一財)日本次世代企業普及機構(通称:ホワイト財団)が「家族に入社を勧めたい、次世代に残していきたい」企業を選定し、表彰する。企業のホワイト化を評価する国内唯一の認定制度
https://jws-japan.or.jp/award/company_2017/
https://jws-japan.or.jp/award/company_2018/
HISTORY OF 2015
社外向けセミナーを開催
IRやサステナビリティ分野における「E(環境)S(社会)G(ガバナンス)」情報の開示方法が企業評価のものさしとなるなか、当社はこれまで培ってきた知見やノウハウ、社外有識者とのネットワークなどを活かして社外向けセミナーを開催。ガバナンス領域では「スチュワードシップ・コード」や「コーポレートガバナンス・コード」への対応、環境社会領域では「マテリアリティ特定」の方法論など、時世のトレンドを踏まえたセミナーは好評を博し、コンサルティング事業、コンテンツ事業の双方で大きな成果を挙げた。
HISTORY OF 2020
コロナ禍でのウェビナーが大きな反響を呼ぶ
2020年に世界を覆った新型コロナ感染症のパンデミック。多くの企業と同様、当社においても社員・顧客・取引先の安全を守るために在宅勤務やリモート会議・商談などを採り入れていったが、2015年からの働き方改革(上記)を通じてワークシェアリングやテレワークを経験していたことから、サービスやコンテンツの品質、納期に大きな支障をきたすこともなく、2020年8月期においては増収増益を達成した。
伝えたいDNA
どんな時も外の世界と向き合い、会社と自身の競争力を世に問い続ける
95年入社 KAZUYUKI:ゼロから“仕事をつくり”、“顧客企業をつくる”――新規開拓こそが最大の面白さだと感じてきた私にとって、コロナ禍でこれまでの営業活動が機能しない状況は(不謹慎ですが)私にとって新たな営業手法に挑戦する千載一遇のチャンスでした。創業時とは異なり顧客基盤が安定している当社では、ここ10年ほど手のかかる新規開拓をせずとも食べていける状況にあり、その風潮に危機感を感じていたのです。そこで私はWebマーケティングによるオンライン営業を準備してきましたが、コロナ禍という有事がこれを後押してくれる結果となりました。このウェビナーを中心とするWebマーケティングプロジェクトを通じて、営業成果はもちろん、会社と個人の競争力を相対化できるプラットフォームをつくることが、今の目標です。どんな時も「外を向き、前を向く」。この独立系のマインドこそが当社の魅力であり、忘れてはならないDNAだと信じています。
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